649号 2013年3月10日

(1)相双地区は陸の孤島  (有)藤原新聞店 代表 藤原広幸

 今回、ご縁がありまして浜通りの今や震災後思うことを、書かせていただくことになりました。元来、物書きではありませんので、誤字脱字、表現の間違いなどは、ご容赦のほどを!

 気がつくと震災から2年たちます。原発以北のこの地方は、いまや陸の孤島、いやいや離れ小島になってしまった感があります。私の家は、南相馬市(旧原町市)になります。
 まず、JR常磐線、常磐自動車道は、原発事故のため再開のめどはたっておらず、東京への直通の手段がありません。相馬市、新地町なども同様です。仙台の交通手段もJRは原ノ町駅〜相馬駅間のみ。その先は代替運行で亘理駅まで。そして乗り換えとこちらも直通便はありません。高速道路も原町〜相馬まで、そしていったん国道6号線で山元町まで走り再度高速にと片側一車線の道路を延々と走ります。
 県庁のある福島市には、一日数本のバスのみです。しかし復興のための工事車両が大量に通るために朝夕の渋滞で、通常1時間半が2〜2時間半もかかります。車がないとどこにも出ることもできません。本当に車の運転ができない人には不便この上ありません。 
 交通手段ひとつとってもこんな感じです。バスに関しては、東京や仙台へも直通はありますが震災前の2倍以上の時間がかかります。震災前はJR常磐線は上野駅〜原ノ町駅間約3時間10分程度でしたが、現在は約5時間半以上かかります。ちょっとした海外に行けそうです。
 駄文に最後までお付き合いいただきありがとうございます。


654号 2013年4月14日

(2)とある塾長の2年間
南相馬市原町区 「番場ゼミナール」 番場さち子

 2011年3月11日の大震災の当日まで100名以上の生徒で賑わっていた塾の教室はこの日以降、たった2、3日で1名もいなくなってしまいました。もちろんあの東京電力第一原子力発電所の事故のせいです。当地は、屋内退避命令が発令されましたが、政府の言っている事は本当なのか?と誰もが疑心暗鬼になり“医師さえ逃げる”のだから、ここにはもう住めないのだろうと判断する人も多かったのです。
 我が家は第一原発から23kmに位置し、近所も皆避難してしまい、ゴーストタウンのようでもありました。飼い主に置いていかれ食べ物を求めて彷徨うペットが増えていきました。動物もわかるんですね、自分がされた仕打ちを。とにかく目つきが悪く、人を見ると威嚇して今にも襲わんばかりでした。
“放射能とは何ぞや?”私は意味がわからないので、それも恐ろしかったのですが生徒がいなくなって収入が途絶え、明日から生活をどうするか今後の人生はどうなるのかと避難先の体育館で震えていました。時は少し経ち、落ち着きを取り戻し始めたころ5人の弁護士に相談しましたが、ほぼ全員から自己破産や別な地域への移転を勧められました。しかし周りを見ると市民は少しずつ戻ってきており子どもも半数近く戻ってきてるようでした。
 復興には教育や人材育成が必要と考える私は、あえて南相馬に残り教室を再開する事を決意しました。教科書の勉強だけではなく「放射能と放射線のちがいとは?」「外部被爆と内部被爆について」といったことも学ばせようと思っています。それが福島県や30kmで線引きされ風評被害をうけた私たちが今後、それを払拭する手立てになっていくと信じているからです。高齢者が増え子どもの少なくなったこの街で何ができるか、何か目的が見つけられるか?そして楽しいことを見出そうと模索しているところです。

 


  人通りがない、夜間宿泊禁止の南相馬市小高区


658号 2013年5月12日

(3)除染と自然  (有)藤原新聞店 代表 藤原広幸

 仙台平野から浜通りの相双地区には、居久根(いぐね)と呼ばれる屋敷森を持つ家々があります。私の住んでいる南相馬にもこの居久根はあります。居久根は、代々、家族が次の代へと引き継ぐもので、何十年もかけて育て一つの自然空間を作り上げていくもので、居久根の中には祠などがあり、その家の歴史でもあります。
 3.11の時には仙台あたりの居久根がある地域は、居久根が津波の勢いを弱めたり、家屋の全壊を防いだといった話を聞きます。しかし、そうやって風水害、地震等から家を守ってきた居久根が、原発事故のため無くなるところが出てきています。事故で飛散した放射性物質が居久根の木に付着して、なかなか周辺の放射線量が落ちないため、伐採や枝落としが行われているのです。また、何十年もかけて大きくなった公園の樹木なども痛ましい姿に伐って しまいました。
 いままであった普通の風景がちょっとずつ姿を変えてきています。これは、我々が安全に住むためにはしょうがないのかもしれませんが、国策とはいえ何か釈然としません。
 此処に住んでいる我々は、居久根や田畑(耕作制限区域のため米の作付けはできません)の風景など自然にかかわる姿を普通の気持ちでは見られません。すぐに何マイクロシーベルトあるんだろうなぁ−と思ってしまいます。条件反射ですね。良いんだか悪いんだかと思いながら日々暮らしています。


662号 2013年6月9日

(4)まだ戻れません 希望と苦悩
双葉郡浪江町 浪江新聞販売センター 代表 林 富士雄

 

 私たちの生活を一変させたあの震災から2年が過ぎました。今年の4月から、私の住んでいた浪江町で区域再編が行われましたが、状況は何一つ震災後から変わっていません。
 私の新聞販売店があった浪江駅前の建物はほとんどが半壊、または全壊という被害状況で震災当時のままです。店の作業台には2011年3月12日の毎日新聞や福島民報が置かれたままであの朝のまま時間が止まっています。行政はいまだに具体的な復興計画を描けずにいます。
   
 町民は避難先でこの先どうすればいいか途方にくれています。時間が経過すればするほど町への帰還率は低下していくでしょう。私も店を強制休業させられてから2年が経過してしまいましたが、もし新聞店を再開させるのは最低でも3年はかかるだろうと考えています。この年月はこの先インフラを整備するのにかかる最低必要な時間でしょう。町の行政もそのくらいの時間が必要と見積もっているのです。
  町民が帰還すると同時に店を再開させるのには非常に厳しいと考えるのが現実的でしょう。しかし不思議と不安より楽しみの気持ちも強いのです。(続く)


667号 2013年7月14日

(5)まだ戻れません 希望と苦悩A

 しばらく前の事ですが、浪江町役場職員と話す機会があり「町はインフラ整備にどのくらいの時間を見積もっているの?」と聞いてみると「正直、国や町が考えた帰還計画の5年では厳しい」との答えでした。予想以上に上下水道の損傷が激しいとのこと。特に下水道は全て使い物にならないほどのレベルだそうです。果たして我々浪江住民は5年以上も帰還を待つことができるのでしょうか。現実は、他市町村に住む所を探し始めている人達もいるようです。県内では、不動産の動きが活発になりつつあります。
 そんな時ある週刊誌に「福島県民分裂、家が建つほど補償金もらって被害者ぶるな!」という見出しがありました。実際は土地を買って家を建てられるほどの補償金は貰えません。しかし一部事実もあります。「県民分裂!」、実際に福島県内でも避難者に心無いことを言ったり、態度をとる人もいます。同じ浜通りでも仮設にいたずらをしたり、車に落書きをされたり、またパートに勤めた人の中には「補償を貰っているのになんで働くの?」なんて嫌味を言われることもあるようです。同じ所に住んでいても心無い人に場所は関係ないみたいです(悲しい)。心無いことを言われる人の多くは、住む家を奪われて、自由に帰ることもできない現実を背負っているのですから。よく考えてみればわかることなのに、ちょっと情けない話でもあります。

双葉郡浪江町 浪江新聞販売センター 代表 林 富士雄


671号 2013年8月11日

(6)いわき市小名浜の今

 東日本大震災から2年4カ月が経過しました。いわき市も少しずつではありますが、復興に向け全力をあげています。その中で、いわき市の沿岸地区に、お魚販売をはじめ、レストラン、飲食等ができる観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」があります。
 震災前は、周辺観光施設を巡る観光バスも含め、関東圏から広く観光客を集めていました。しかし原発事故の影響により、復興後は県外からの観光客は従来のようには来館が望めないことから、集客のターゲットを地元ファミリー層に絞りました。そして震災後、屋外で遊ぶ機会が減った子どもたちのために、大規模な屋内型のあそび場を開設しました。東北最大級の広さを誇る屋内施設は好評で、来館者数は平成23年度中に震災前の約8割程度まで戻りました。復興のニュースが全国に流された後は、視察ツアーも含め、観光バスの来館数も徐々に回復しています。ただし、購買額の大きい首都圏からの来客が減少したため、全体売上は震災前の6割程度であります。しかしそんな中、地元産業である漁業の現地水揚げした魚が、風評被害でなかなか思うように売れないのです。そのため、わざわざ別産地のものを売っているのが現実です。同じ海で取れたものなのに!(涙)

福島県いわき市 小名浜新聞販売センター 阿部浩治


674号 2013年9月8日

(7)被災地はクレジット審査が通らない?

 2013年1月に、私のクレジットカードは期限を迎えることになっていた。ところが待てど暮らせど新しい更新カードは届かない。息子に促され、不思議に思いながら電話で確認をしたところ、受け付けた女子職員からの答えは「審査に通りませんでした」というものだった。きちんと毎月、カードの支払いも滞りなくしているし、私に何の落ち度があるというのだ?納得がいかない。腑に落ちない。審査の通らない理由が知りたい。私は理解できない頭をグルグルさせながら女子職員に「どうしてでしょうか?」と問うた。「総括的にです。それ以上は申し上げられません」
 たまたま電話に出た女子職員に詰め寄ったところでらちが明かないと思い「上の方とお話がしたい。納得いくように説明をいただきたい」と申し上げた。それはできないと繰り返し答える女子職員にとうとう言葉が出た。
「被災地だからでしょうか?」
 被災地に住んでいる我々は、いまだに風評被害やら差別やらに、嫌な気分に陥ることも少なくない。高速道路のパーキングのゴミ箱には、いまだに福島のお土産が捨てられているという話も耳にするし、セシウム放射能うんぬんではない。とにかく福島県の物は受け入れたくないという他県の話も耳にする。つい数日前も、奨学金をお借りした団体から「被災地の方はご連絡を」という文書が届き、言われるままに電話をしてみた。なにか被災地は特典があるのかとわずかな期待感を持って電話した私に、担当の女の子は言った。「もう2年も前のことですよね?古い話ですので…」
 私の後頭部はカッと血圧が上昇し、心臓の鼓動がドクドクと速さを増し、反論する言葉をとっさに模索した。
 あの東京電力福島原子力発電所は、関東へ送るための電気を作っていたところである。私たちは東北電力の管轄で、あの電気は使用していない。東京は日本の首都ではないか。首都機能を賄うための電気であるならば、日本人すべての問題でもあるはずである。それを福島というだけで、色眼鏡で見るとは何事だ!と、私の怒りはこみ上げる。しかも「もう2年も前のこと」で「古い話」とはどういうことだ!世間では、東京では、あの原発事故はもう忘れ去られた出来事なのか?「あなたたちに送っていた電気なんですが…」と絶叫したい気持ちを抑えて、私は努めて静かに話す。「まだ2年しか経っておりません。被災地は、まだ何も変わっておりません」
 前述のカードの会社からはその後、たったの2時間未満の時間で折り返しの電話が返ってきた。「審査に通りました。ただし、限度額は引き下げさせていただきます」喜ぶべきか、怒るべきか、私は少しの安堵感と寂寥感と、複雑な思いで電話を切った。
 たまたまこのことを知った男性から「僕も新しいカードが届かなかった…。そういう理由だったのですね」とコメントが寄せられた。彼は、理由を追及するでもなく、『もう新しいの届かないんだ…』と諦めていたようだが、彼以外にも、同じ状況の方がたくさんいらっしゃるのではないだろうか。 
 被災地はこうした差別にも苦しむ。被災地で暮らすということは、風評被害や差別との戦いでもある。こうしたストレスが被災地の住民の心と身体を疲れさせていくのでしょう(涙)。
 
 福島県 南相馬市 原町区  「番場ゼミナール」代表 番場さち子


679号 2013年10月13日

(8)本当のこと

 最近、また色々と新聞やテレビをにぎわせている「浜通り」ですが、地元の人にとっては、「あーやっぱり!」というのが大半の思いだと感じます。たとえば汚染水の問題でも事故以降、原子炉を冷やし続けるために一日何百リットルもの水を入れ続けてもタンクの中に水が溜まらないのですから、どう考えてもどこかに流れ出ているのは明白です。
 しかし東電は、2年半近く安全だといい続けました。そして国もそのことに対して、否定も肯定もせず今まできました。考えれば2年前もそうでした。原発の水素爆発の際、同心円で避難勧告を出し、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム、通称(SPEEDI)の発表した放射能の拡散図を公表せず、どこかへやってしまい半年以上隠していました。  
 そのことによって線量の低い避難しなくてもよいところの人が避難したり、またその逆であったりと・・・。これにより線量が低いところまで風評被害で色々不都合が起きているのです。それは近隣の県にも広がっています。たとえば韓国は水産物の輸入禁止に福島県近隣八県を指定したり、もっとも海のない栃木、群馬が入ってるのは疑問ですけど(笑)
 今後も東電は、自分に不都合なことは発表しないつもりでしょうか?オリンピック誘致のときに招致委員の人は言いました。「福島から東京は250km離れてるから安全です」と。では30kmの浜通りは安全ではないのですか?それでも、ここに人々の暮らしはあります。 
 南相馬市 (有)藤原新聞店 藤原広幸


683号 2013年11月10日

(9)日本一?

 今、浜通りは、労働力不足が深刻な問題になってきています。特に原発に近くなればなるほど深刻です。それは、南相馬も例外ではありません。小中学生を子どもに持つ30〜40代の働き盛りの人達が避難したり他の場所で新たな生活を始めたりしているからです。
 南相馬の人口も震災前並みになってはきましたが、もともとの市民ではなく警戒区域から移動してきた人や原発関係者、除染の仕事など、住民票が南相馬にはない人がたくさんいます。 
 そういった人たちは高齢であったり地元の仕事には関係ない人だったりするのです。人がいるから、行政を含め、買い物や食事など需要はたくさんあるのですが前にも書きましたが働き盛りの働き手がいないのです。風評被害で人が集まらない、戻らない。だから若い人は 出て行く。もう悪循環ですね!国や東電は、うわべだけでなく現実をちゃんと見てもらいたいです。
 ちなみに某有名牛丼チェーン店の時給は1,320円と、今日本一高いそうです。(笑)人手不足の新聞販売店にはとても脅威です。ちなみに除染の仕事は日給15,500円プラスαで月40万円以上だそうです。そして原発に近いほど高いです。(涙)
南相馬市  (有)藤原新聞店 藤原広幸


687号 2013年12月8日

(10)符丁

 符丁は元々先人の教えを伝える隠語の役割を果たしてきたものですが、最近ではあまり関心を示されなくなりました。しかし、今回の震災で昔の人々が後世の人に伝えたいことが地名や建物や街道などに残されていることが色々なところで確認され、実際にその場所に行ったとき「あーそうだったんだ」と改めて先人の知恵に教えられることが多々ありました。
 例えば、ある神社は津波の時に海岸まで10mの距離であっても波をかぶリませんでした。被災の分かれ目に神社があることも多く、「沼」「浦」「谷地」「湊」などと呼ばれた地名の場所は、そこが津波被害の境目であった所が多々ありました。宮城県仙台市若林区の浪分神社が津波被害の分かれ目であったことは、全国的にも話題になりました。
 また旧陸前浜街道(現在は国道6号線)の西側は今回の津波被害は少なかったのです。津波の浸水区域と 照らし合わせてみると、津波を避けるように旧街道は作られていました。しかし現在の国道6号線は、旧街道に比べ直線的に作られたため海岸に近く、平らなところに道路を作っていきました。そして当然新しい道路に沿って街は形成されていきました。その結果、今回の津波被害にあいました。先人の教え(符丁)をわかっていればと考えます。
 話は変わりますが、今年プロ野球で東北楽天ゴールデンイーグルスが日本シリーズで逆転勝利し日本一になり東北に元気を与えました。奇しくも優勝を決めた日は11月3日です。この日を反対から読むと3.11です。11.3震災→逆転3.11です。そうです、復興への符丁かも! まあ、一個人の思いですけどね(笑)
福島県南相馬市  藤原新聞店 藤原広幸


692号 2014年1月12日

(11)現在(いま)

 

 2013年12月1日で震災後ちょうど1000日になりました。振り返るとあっという間に過ぎ去ったような気がします。そんな中、現在の南相馬について、ちまたの噂話も含めて書いてみました。
 まずはやっぱり除染が進んでいないこと。国は3年の延長と言っていますが、実際は工程の遅れや除染効果の疑問などでペースダウンしているようです。南相馬市でも現在、30%も除染は進んでいないでしょう。また復興住宅の建設に関しても遅れ気味で、まだ土地の整備も済んでいません。そして仮設住宅に住んでる人は、狭い、暑い、寒い、プライバシーがない等の状態に置かれたままです。たくさん作ったものの、入居率が低い理由はわかっているのに改善の取り組みがないようです。また、治安がちょっと悪くなっているという声を聞きます。原発や除染に関わる人たちが全国から来るため小さなイザコザやちょっとした事件が起きてます。集まってきてる人が悪いと言うわけではないのですが、残念です。   
 また小高区の4つの小学校と小高中学は未だに隣の鹿島区の仮設校舎を学び舎としています。こういったところに早く税金を使ってほしいものです。12月17日の行政発表によると、震災と原発による避難などが原因で亡くなった震災関連死が1650人と震災直接死を上回りました。南相馬はその中で最大の439人です。あまりメディアには出ない話ですが、震災後の厳しい現実を物語っているようです。浜通りの旅、まだまだ続きます!!
福島県南相馬市 挙。原新聞店 藤原広幸


696号 2014年2月9日

(12)私のふるさと浪江町

釜Q江新聞販売センター 代表 林 富士雄

 東日本大震災から丸3年が経とうとしています。浪江町の被災者と話す機会が度々あるが、「将来、浪江に戻って生活したい」という話をする人が最近めっきり少なくなったと感じます。それぞれの避難先に落ち着く人が多く、「最近土地を買った。中古物件を買った」という話を聞くことが本当に多くなったと感じます。戻れないことを悲観するより前を向いて新たな道を歩いていこうという強い気持ちを感じ取れる反面、「やっぱり浪江には戻らないんだ」という寂しさの入り混じった複雑な気持ちになります。また3年の日々は、ストレスで病いになったり、先が見えず自立できずにいる人、また病気や事故でふるさとに帰れないまま亡くなる浪江の人を作り出しました。
 そんな中、今年は少し明るい話題がありました。2013年11月9日、10日の両日、愛知県豊川市で開催された「第8回B−1グランプリin豊川 大会」にて「浪江焼麺太国」がゴールドグランプリを獲得しました。これは浪江の人に勇気や感動を与えたかも知れません。そして人が住んでいない町「浪江」という名前は全国に知れ渡るようになりました(多分)。
 5年後、10年後、町はどうなっているのか?私の新聞販売店はどうなっているのかわかりません。そして復興や原発事故などはどこに向かっていくのか?人が住んでいなくても住めなくても浪江町はまちがいなく私が生まれ育ったところであり、大事な故郷です。そしてこれから自分は、前を向いて進んでいこうと思います。


700号 2014年3月9日

(13)雪の被害と効能?

福島県南相馬市(有)藤原新聞店  代表 藤原広幸

 浜通り地方にも記録的な大雪が降りました。ちなみに2月9日と16日は新聞配達が出来ませんでした。9日はアルバイトの9割が家から出られず、新聞到着も4時間遅れ、かつ店の車両等が動けず欠配。16日は販売店まで新聞が届きませんでした。ここは東北ではありますが、中通りや会津地方と違い雪は少なく雪害にはまったく弱い地域なのです。
 私が住んでいる浜通りの相双地区は、年に1度か2度ほど20〜30cmの雪は降るのですが、その程度の雪ならば除雪はできるのです。しかし今回は50〜60cmで、この地域の除雪能力をはるかに超えていました。今回の大雪で3年前のいやな記憶がよみがえりました。そう、また陸の孤島になってしまったのです。県庁所在地の福島市へ行く道路がすべて雪で寸断され、物流が滞ることになったのです。3年前のあの時と同じように…。しかし今回は自然のせいなのでしょうがないですけど。ただ、仙台方面が通行止めにならず、ある程度の物の流れは確保されました。ニュースを見ると当地域よりも大変な地域がたくさんあり、当事者の気持ちがよくわかる感じがしました。今回の雪害の共通点はすべて道路にあると思いました。やはり不安のない生活には、道路の環境整備が必要だと感じます。陸の孤島に住むものにとっては!  
 しかし大雪が降って南相馬市の環境放射線測定値が、0.013μsvから0.009μsvに下がりました。雪で放射線が遮られるためです。自然の力は偉大です。放射線をとるか大雪をとるか…、悩ましいです。成るがままにしかなりませんけどね!


705号 2014年4月13日

(14)浜通りの宿泊施設 3.11〜現在

福島県 南相馬ホテル旅館組合 事務局長 志賀公一

 3月11日が近づくと浜通りの宿泊施設は、テレビ局のレポーターやスタッフ、またメディア関係の人で満杯になります。そして今年も沢山の人が宿泊していきました。しかし12日になると潮が引いたように、浜通りは静かになります。 
 振り返ると2011年3月11日以降は、復旧需要で浜通りのホテル旅館は客室不足に陥った時期もありましたが、現在は仮設宿舎が沢山建設され、原発関係の作業員の宿泊問題は緩和されて、ほぼ通常通りの営業になっています。しかしまだまだ問題は多くあります。移住制限区域などではいまだに宿泊施設が再開されず、また避難指示解除準備区域や解除区域では廃業する業者も出てきています。そして各旅館やホテルでは食材の一切を地元産品を使用することができなく、イベントや学生の大会などで来るお客様へ浜通りらしさを前面に押し出し自信を持ってお迎えすることはできません。風評被害という壁が立ちはだかっているからです。また後継者不足、労働力不足、材料の高騰、建物の維持修繕費など今後の営業継続に影を落とす問題も出てきています。 
 しかし震災、原発事故の時にも私たちは宿泊する人がいるということで避難もしませんでした。そしてその後もこの地域のために復旧復興の一翼を担ってきたという自負があり、これからもその気持ちを切らさず営業をしていきます。3月11日だけでなく普通に浜通りに観光に来てください。それが風評被害をなくすことになります。浜通りは、意外と普通に観光できます!!


709号 2014年5月18日

(15)白い田んぼ

福島県南相馬市(有)藤原新聞店 藤原広幸

 震災から3年が過ぎ、除染もだんだん進んでいるようです。おかげで線量は3年前と比べると1/7から1/10と健康には影響がないレベルまで下がりました。しかし除染で出た汚染廃棄物は行き先がまだ決まっていません。中間貯蔵施設や最終処理施設などがいまだに決まっていないからです。そのため、浜通り各市内には仮置き場なるものが多数作られています。最初の頃は人里離れた場所や目立たない所でしたが、汚染廃棄物は増え続け、気がつくと身の回りのあらゆるところに見られるようになりました。市民でさえ驚くばかりです。
 また仮置き場に持っていけない汚染土は、自宅の一角に袋に入れてそのままにしてあります。いつの間にかそれらが普通の生活風景になりつつあります。慣れとは恐ろしいものです。
 人の住んでいない飯舘村でも田んぼの除染が進んでいます。田んぼの表面を5cm程剥ぎ取ったあと山砂、白砂、赤土等を入れています。そのため一面乳白色です。粘土質の土が必要な田んぼへの山砂の投入は、再び田んぼとして使えるのか、将来の作付を考えると気になります。また除染のため「いぐね」の木を切ったものはその家の敷地内に置く事になっているのですが、人が住んでいないため切った木にシロアリが発生し、自宅へのシロアリ被害の拡大が懸念されています。暮らしが落ち着くにともない将来に配慮した除染作業が求められています。
 原発から一番遠い避難区域の飯舘村は原発の恩恵をあまり受けていませんでした。しかし原発事故による全村民避難となり、事故後5年での帰村計画を立てたのですが、3年たっても村の方向性が見出せない状況です。


712号 2014年6月8日

(16)某連載マンガの波紋

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 今回は、とある連載マンガで鼻血の描写が問題になっている頃書いています。実際地元に住んでいる私たちには複雑な思いがあります。様々な問題に直面しながらも確実に復興に向かって進んでいる私達にとって、すべてを根底からひっくり返される気がした出来事でした。
 本当は、国や東電が言っているのが事実なのか、それともそのマンガが正しいのか、私達の中でも答えは出ていません。しかしここには、人がいて生活があるのです。住んでる人は復興を信じて頑張っています。そして国、団体、企業他、色々な人達から様々な支援も受けています。たとえば常磐高速道も半年前倒しで完成を目指しています。楽天は子ども達への屋内運動施設を提供してくれました。浜通りにあるJヴィレッジ(福島原発事故に伴い閉鎖していた日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター)の早期再開へのプランも示されました。またNPO法人によるボランティア活動支援など、数えたらきりがありません。それらに答えるために地元の人たちも、共に頑張っています。そんなとき青天の霹靂のように出た話題でした。大きなキャンセルが出た宿泊施設もあったようです。この問題は浜通りだけでなく福島県内でも肯定派、反対派と分かれました。ただ私のまわりでは鼻血が出るという人は、たまたま一人もいません。だからと言ってすべてを否定も肯定もしません。早く明るい話題でマスコミを賑わしたいものです。


717号 2014年7月13日

(17)東京に福島出身者の相談窓口

 浜通り日記に何度か寄稿している進学塾 塾長の番場さち子さんが、東京に住む福島県出身者の相談窓口として、ボランティアの会の東京支部を開設しました。
 最初は福島で避難の判断に悩む親の相談にのったり、放射能の影響や疑問に答えたりして地元で周りの人たちの力になっていましたが、三年の日々が過ぎ彼女のもとには首都圏に進学した学生や親御さんから相談を受ける機会が多くなりました。悩みの多くは、今で言う『風評被害』です。学生は「福島県出身と明らかにした途端まわりからなんともいえない空気に変わり、気まずい思いになり、こんな思いをするなら福島と名乗らなければよかった」といった悩みを抱え、引きこもってしまうケースもあるようです。また転勤で他県へ移ったものの、事故当時福島県にいたことを周囲に言えずに悩む人もいるといいます。こうした悩みに対応するために首都圏にいる塾の教え子らが中心になって東京支部を開設しました。今後は月に一回程度の割合でこの活動に賛同する福島県出身者、研究者、学生などが集い、今後の活動を話し合い福島県への正しい理解を広げていくイベント等を実施していく予定です。「東京に出て今まで意識していなかった壁に衝撃を受ける若者もいる。そんな人たちのために前に進む力になりたい」と番場塾長は話していました。(福島民報より一部抜粋)


721号 2014年8月10日

(18)夏祭り

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 浜通り地方は大きく分けて二つの地域に分けられます。一つは南部のいわき地区。もう一つが私が住んでる北部の相双地方です。この相双地方には1000年以上続く相馬野馬追(そうま のまおい)という祭りがあります。地元では神事と言う人もいます。この野馬追は7月23・24日に神事、その後の土日に祭りが相馬市 南相馬市 浪江町 双葉町 大熊町の旧相馬藩内の市町村で行われます。
 震災後、浪江町 双葉町 大熊町は、「帰還困難区域」と「避難指示解除準備区域」の2つに再編されたため、いまだに人は住んでいません。そのため野馬追にはなかなか参加することが難しく、2011年は出陣式だけでしたが、翌年からはメインの祭りも行われるようになりました。
 震災前は各郷ごとに騎馬隊が編成され500騎以上の騎馬が集まりましたが、震災後2012年は200騎ほどまで減りました。しかし今年は地元の騎馬会や日本全国の避難先から故郷を思い、元気づけようと最盛期の500に近づく騎馬武者が集まり、少しずつ町が元気になってきています。しかし原発はというと汚染水のタンクに中古の部品を使っていたり、5号機の汚染水問題、セシウムの飛散問題の未発表など国や東電は、相変わらず不都合なことはマスコミなどに指摘されるまで発表しません。残念ですね。しかし地域の人達は厳しい現実の中にも、新しい未来に向けて懸命に進もうとしています。負けるわけにはいきません。


726号 2014年9月21日

(19)復興住

 災害復興住宅というものが浜通りを中心に建てられています。福島県発表による県内の復興公営住宅建設の進捗状況(7月末現在)は、地震・津波等の被災住宅が計画2714戸に対して完成402戸。残りは用地調整中、設計中、建設中です。原子力災害による避難者住宅は計画の4890戸に対し、まだ完成はなく、平成27年度完成へ向けて作業が進められています。地震・津波と原子力災害を合計した復興住宅計画7604戸に対し、完成は402戸(5.3%)と厳しい状況です。
 震災から3年半たっても、まだ仮設や借り上げ住宅の仮住まいの人が大半です。復興住宅の建設が遅れれば遅れるほど帰還率が下がっていくことは目に見えてます。いま国は2020年のオリンピックのインフラ整備に躍起になっていますが、表舞台でないところには少し手ぬきしているのでは?と勘ぐってしまいたくなります。毎年日本のどこかで大なり小なりの災害や事故はありますが、喉元過ぎても熱さを忘れずに取り組まないといけないですね。
 これを書いている時に広島の土石流災害を知りました。相馬市は2日後に支援物資を送りました。同じ被災者として痛みや悲しみがわかるからです。一日も早い復旧を祈るばかりです。次号からは福島発の希望や喜びもお届けします。


730号 2014年10月19日

(20)道路復興が急ピッチ

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 9月15日午前0時、国道6号線のうち、立ち入り禁止の帰還困難区域内を走る双葉町〜富岡町間(約14キロ)の自動車への通行規制が解除されました。これにともない、帰還困難区域の大熊、双葉両町には東京電力福島第1原発事故で出た汚染土などを保管する中間貯蔵施設も建設予定です。国が除染を8月までに完了させたおかげで復興に不可欠な幹線道路として、通れるようになりました。 
 これまで県北の相馬市から県南のいわき市まで、内陸部を迂回(うかい)して4時間かかっていましたが2時間に短縮されます。しかし、沿線の商店などは交通量増への対応に追われています。通行規制の解除で不審者の侵入も予想され、地元では治安悪化を心配する声もあります。国は脇道との交差点に設置しているバリケードを強化して侵入を防ぎ、地元自治体は防犯カメラの設置やパトロール強化などを図っていくそうです。
 この解除により復興が早くなればと地元の人たちは思っています。陸の孤島が陸の離れ島ぐらいなった、そんな感じです。(ちなみにバイクや自転車、歩行者は通れません)そして今年の12月には常磐自動車道路が仙台までつながります。とても楽しみです。来年のGWには全線開通!すすめ復興!ですね。


700号 2014年11月16日

(21)復興のシンボル

福島県いわき市湯本 菅原新聞店 菅原 啓

 今年の夏の封切り映画に「高速参勤交代」という作品がありました。この作品の舞台になった湯長谷(ゆながや)藩というのは、私の新聞店があるいわき市の湯本地区にあった実在の藩です。この作品のおかげでいわきに来る観光客が増えたそうです。また少し前ですが「フラガール!」というこの地区を題材にした映画がありました。
 その「フラガール!」の舞台になったのがスパリゾートハワイアンズという施設です。年配の方には常磐ハワイアンセンターのほうが分かりやすいかもしれません。このハワイアンズは苦難と復活の繰り返しの歴史なのです。元々は常磐炭鉱という炭鉱会社なのですが、石炭需要が減り社員雇用のためにハワイアンズをつくりました。最初は周りからの猛反対と疑心暗鬼との戦いだったそうです。その後、順調に来客数を増やしますがバブルの崩壊や他のテーマパークの台頭によりまた苦難の時代が訪れます。そして、前に書いた「フラガール!」のヒットにより復活。しかし、今度は2011年3月11日の地震により被災します。そして風評被害もありまた苦難が。そこで、フラガールのメンバーは東日本大震災後、被災者支援の一環として福島県内の避難所を中心に全国142ヶ所を廻り笑顔を届けます。そして映画『がんばっぺフラガール! 〜フクシマに生きる。彼女たちのいま〜』の公開もあり、いまは震災前の来客数に戻ったそうです。スパリゾートハワイアンズは民間の一企業ですが、いまは浜通りの復興のシンボルとなっています。がんばっぺ浜通り!


739号 2014年12月21日

(22)浜通りの生徒たち

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 南相馬市は、平成の大合併で2町1市が合併して、小高区、原町区、鹿島区の三区に分かれています。しかし今は、年間積算線量の区分に応じ、年間20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」、年間20ミリシ−ベルト超50ミリシーベルト以下の「居住制限区域」、年間50ミリシーベルト超の「帰還困難区域」の3つの区域割のほうが現実的となっています。人が住んでいるかいないかの分け方です。
 この区分により影響が出たのが小中学校の生徒数です。人数割合では、鹿島区95%、原町区65%、小高区35%、の生徒児童がもとの学び舎に戻ってきています。風評被害や人数不足の中、みんな一生懸命に勉強や部活動を頑張っています。たとえば原町区にある南相馬市立原町第一中学校は、今年の10月25日に開かれた第62回全日本吹奏楽コンクール中学の部で銅賞を受賞しました。  
 震災前は70〜80人いた部員も48人に減り、新規部員募集や初心者指導などに追われ、時間もなく厳しい状況の中での受賞でした。また居住制限区域の浪江町から避難して二本松に住んでいる中学3年生の平子さんは、全国の中高生が腕前を競う「オレンジページジュニア料理選手権」の個人部門でふるさと自慢の材料を使った創作料理で準グランプリに選ばれました。彼女はいまだに仮設住宅住まいです。
 浜通りの子どもたちはがんばっています。原町一中の生徒は新聞取材にこう言ってました「がんばれたのは全国から寄せられた激励などの手紙やメールでした。それをみて私たちは愛されてるんだね」と・・・。


743号 2015年1月18日

(23)原発沿いの国道が開通

南相馬市 (有)藤原新聞店 藤原広幸

 2011年3月11日の福島第一原発事故で、昨年秋まで不通だった原発沿いを通る国道6号線が全線開通になりました。今回機会があっていわき市方面に行くことがあり、3年ぶりに6号線を走りました。実際に通った感想や見たことをお伝えしようと思います。
 原町区を朝8時ごろ出て、いわき方面に向かいます。当然、線量計を持って出ます。まず目につくのは工事車両や除染関係の車両が多いこと。通行車両の約8割を占めています。そのため断続的に渋滞が続き、のろのろ運転が10q位続きます。このとき線量計は0.1〜0.2μsv(マイクロシーベルト)を表示。その後、浪江町に入っていくと徐々に除染関係車両は脇道に入っていき、渋滞がなくなっていきます。
 そして、今まで通行止めだった浪江〜富岡間に入っていきます。双葉町に入ってすぐ線量計を確認すると0.4〜0.6μsvを表示しています。そして福島第一原発に近づくと見る間に線量計の数値が1μsv→3μsv→3.6μsvと跳ね上がっていきます。その日の最大線量は、車中でしたが7μsvを表示しました。
 そして原発近くの双葉町に入って目につくのは国道両脇に続くバリケード。大きな交差点のたびに見かける警備に当たる人の姿。そして震災直後のままの姿を残した主のいない建物でした。「ここは時間が動かないんだ」。急にそう思いました。大熊町に入り、富岡町と同じ風景が続きます。線量計は0.5〜2μsv位で推移。その後、無事いわき市に着きました。走ってみて、震災後、人が住んでいる町と立ち入りできなかった町とこんなに違うものかと感じました。双葉郡の復興は道遠し! 
 がんばっぺ双葉郡。


747号 2015年2月15日

(24)事業再開

福島カラー印刷株式会社  志村 健

 私の勤め先の印刷会社は福島市に本社を置き、浜通りにも多数の顧客を持っていましたが、東日本大震災で多くの顧客を失ってしまいました。しかし、震災後も休業はせず仕事を受注していく方針を立て、クライアントから声が掛かればすぐに対応することを決めました。そんな中、クライアント及び協力会社へ被災状況や事業再開時期をヒヤリングするにつれて、業務が困難な状況であることを思い知らされました。
 まずはエネルギー不足からくる紙やインクなど印刷資材の入荷が困難だったこと。そして原発事故で被災した従業員が会社に出社できず自然休業になってしまっていること。その結果クライアント、協力会社ともに業務を行うことができない、という厳しい状況でした。
 それでも弊社は東京から印刷の前行程であるデータ作成の仕事をいただいていたので、制作部の担当は自宅にいながら作業と校正をすることができ、仕事の手を止めることなく仕事を請けることができました。
 当時の状況を振り返ると、混乱した情報の中、今後 仕事と生活はどうなっていくのだろう、と不安だけが募っていました。そこで気付かされたのは正しい情報を得ること、伝えることの大切さでした。周りが混乱している状況の中でいかにして冷静に正しい情報を得るかです。
 ちなみに『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている再生・日本製紙石巻工場』 (著者 佐々涼子 早川書房)という本を読むと震災後の混乱した状況の中での工場復興に向けた取り組みが詳しく書かれています。自分たちの経験と重なることが多く、その当時のことがよみがえってきます。
 私たちは浜通りの地域再生への思いと取り組みを後世へ伝えていかなければならないと感じています。


751号 2015年3月15日

(25)うれしい話

南相馬市 (有)藤原新聞店 藤原広幸

 この浜通り日記に何度か寄稿してくれた南相馬で塾を経営している番場さち子さんが、このたび東日本大震災の復興に尽力したとして「日本復興の光大賞15」(NPO法人日本トルコ文化交流会が今年創設)の大賞を受賞しました。同じ南相馬市民として大変うれしく思います。
 今回の賞は番場さんが主催する 「ベテランママの会」という小さな会で受賞しました。会の結成は原発事故直後の2011年4月でした。番場さん自身も震災後、原発事故の不安や多くの問題を抱えていた頃でした。しかし「何とかしなければ」との思いから、自分たちで専門医師を招いて放射能の勉強会を開くなどしてきました。
 昨年8月には放射能について分かりやすくまとめた小冊子「福島県南相馬発・坪倉正治先生のよくわかる放射線教室」を発行し、英語版もつくりました。この冊子には現地調査に基づくデータが記載され、南相馬市街地の空間線量は西日本のそれと変わらないことを書いてます。しかし、この記述に対して考え方の異なる人たちからバッシングを受け、問題の根深さを感じたそうです。その他、地元のお年寄りのために編み物のサークルなども立ち上げ、高齢者の元気作りにも取り組んでいます。がんばれ番場塾長! 
 ちなみにこの記事を書いてるとき、東京マラソンで日本人最高位の7位となった南相馬出身の今井正人君のニュースを見ました。これもうれしい話です。実家は津波の被害にあいました。大変だったはずですが、夢に向かって頑張っています。エールを送りたいです。


756号 2015年4月19日

(26)駐在記者のつぶやき

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 福島県南相馬市には原発事故以後、全国からの関心も高いため、全国紙、地方紙、テレビ局など計8つの支局や通信部が置かれています。その中のひとつ全国紙の駐在記者がこんな日記を書いてくれました。

 私が勤務する南相馬通信部は福島原発の事故に伴い、避難自治体に設けられたわが社唯一の場所です。日々の暮らしも、まさに震災や原発事故の打撃とともにあります。南相馬市民や、近隣の人たちからの報道機関への信頼は高いものがあります。これはひとえに震災直後に情報が錯綜する中、情報を集め発信し続けたからだと信じています。
  ところで、ここで生活する上で直面する原発事故の影響の一つが、街の「夜の早さ」です。避難したまま帰還しない住民も多く、夜中にはお客も少なく働き手も少なくなっています。ほとんどの飲食店は午後9時半ぐらいまでにはラストオーダーになってしまいます。出稿作業が長引くと夕食に困ることが多く、はじめた対策が自炊でした。元々食い道楽でしたから上達は早く、今では肉、魚、野菜、たいていの食材は料理できるようになりました。おかげで、長年悩まされていた尿酸値も、約5年ぶりに標準値に戻りました。また寝静まった夜の街は交通量も少なく、ジョギングに最適で、入社以来右肩上がりだった体重は少し減り、健康を取り戻しつつあります。 
  極めて大きなテーマを抱える土地での仕事ですが、取材先からの魚や野菜の頂き物も多く、食卓にはそれらが並びます。私にとっては充実した生活かもしれません。

 原発事故以来、大きく重たいテーマを抱えながらも、駐在記者たちは日々楽しく奮闘しています。次号は一般マスコミからはあまり伝えられない、除染の情報をお伝えする予定です。


760号 2015年5月24日

(27)除染その後

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 震災から5年目になり、福島の除染も進んでいますが、原発事故で避難区域を抱える浜通りはなかなか進んでいません。最近いろいろな除染方法や被爆予防が伝えられています。
 三菱重工業は重水素を使い元素の種類を変える元素変換の基盤技術を確立。これは放射性廃棄物の無害化処理に道を開くものです。名桜大学教授で国際EM技術研究所所長の比嘉照夫氏はEM菌(有用微生物群)を使った土壌の除染を発表。名古屋のベンチャー企業「実践環境研究所」は炭を使った安価な除染技術を発表しています。また、長崎に原爆が投下されたときに、秋月辰一郎医師は、玄米飯にうんと塩をつけ、塩からい味噌汁を毎日食べさせて、患者や医療関係者を被曝から守ったと言われています。現在、汚染水の除染にはALPS(多核種除去設備)という設備が使われています。これはセシウムやトリチウムを除く62種類の放射性物質を取り除く装置ですが、技術的な問題もあり、稼働率は低いようです。
 地面や山林の除染は、江戸時代の火消しと一緒で、火を消すことより火が広がらないようにすることに似ています。放射能の線源を科学的に中和するのでなく、地面を削り新しい砂利を入れたり、家屋の表面は水で流す。庭や公園なら木を切る。それで出てきたものが汚染土や汚染瓦礫になるので放射性物質の総量は劇的には減りません。そして人があまり近寄らない所は、その周り何メートルかだけ伐採や地面を削るだけです。これでは数年後にはまた、除染が必要な事態が起きるのは目に見えてます。元を何とかしないとダメなのです。


764号 2015年6月21日

(28)除染その後A

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 浜通りも震災後4年が経ち、復興や除染も進んでいますが、新たな問題も生まれてきています。
 たとえば復旧作業に伴って出てくる除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設です。平成27年6月末までには稼動する目標でしたが、輸送ルートの調整難航や施設建設に向けた地権者交渉がなかなか進まず、期限までの開始は困難な状況になっています。また、毎年、新聞やテレビが行う避難者への意識調査では、帰還意識が年々低くなっています。同時に避難者の高齢化も目立ってきています。
 放射能汚染については住宅や公共施設などは除染が進み、空間線量は国の規定を下回ってきていますが、森林などは手付かずの状況で、福島県が公表した5月28日の調査結果では、放射性セシウムの8割が土壌にしみ込み、地表から約5cm程度のところにとどまっていることが明らかになりました。降雨時に、このしみ込んだセシウムが流れ出して、下流の住宅や河川を汚染しかねません。これを解決する対策も待ったなしの状況です。ちなみに森林のセシウムが0.2μsvにまで下がるのは平成43年頃と推定されています(涙)。国や東電には、前回にお伝えした様々な除染方法等にトライしてもらい積極的に可能性を探ってほしいものです。
 1F(福島第一原発)の中では除染が進み、1〜4号機周辺を除き敷地の90%で全面マスクを使用せずに作業できるようになりました。廃炉作業の作業効率も上がることが期待されます。ちょっとうれしい話題です(^-^)


772号 2015年8月23日

(29)5回目の夏

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 今年の夏は例年に比べ周りの風景が少し違っています。それは田畑に農作物を作る風景が増えたことです。しかし私が住んでいる原町区では、作物の放射線被爆量が場所によってばらつきがあるため、出荷できるかどうか心配です。市場でも産地が福島というだけで2割から3割ぐらい安く売られています。残念ですが福島県内でも同じような状況です。
 原発事故から5回目の夏を迎え、双葉郡楢葉町は2015年9月に避難区域を解除されることになりました。しかし、町民の間には「解除はまだ早いのでは」「生活インフラが整っていない」といった不安な意見も多数あります。一方、早く帰って元の生活に少しでも戻りたいといった声があるのも事実です。 
 国や東電は、とりあえず解除しておけば後は何とかなると、考えているのでしょうか。安保法案も通してしまえば後は何とかなるみたいな。どちらも構図が似ているような気がします。
 私が住んでいる町でも、似たような問題があります。今まで国は年間被爆量の安全基準を1ミリシーベルトとしていましたが、原発事故後、2ミリシーベルトに引上げました。いま原町区や小高区も除染が進んで線量は下がってきましたが、一部の高線量地域ではなかなか思うようになりません。そこで国や東電は、年間の被爆量を20ミリシーベルトまで生活に支障がないと決め、高線量地区の避難指定を解除しました。4年間で20倍です!本当に安全なのでしょうか。都合のいいデーターだけ出しているのでは、と考えたくもなります。 
 それとも国や東電は数字に慣れてしまえば誤魔化せると考えているのでしょうか?しかし、当該区域の人たちのなかには、解除はまだ早いと集団訴訟する人達も出てきました。当然、本当に安全か知りたいはずです。復興が進む中で細かい問題は、置き去りにされている。そんな気持ちにさせられました。


左が4年目の放置田。右が田植えをした田んぼ。


776号 2015年9月20日

(30)復興事業に関わる人たち

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 震災後5年目になり、復興もかなり進んできて町も以前の姿に戻りつつあります。それでもなかなか人口は以前のようには戻りません。
 飯舘村にも避難解除後のインフラの一環としてコンビニができました。線量は高いので住んではいません。この飯舘村唯一のコンビ二は、除染の作業員や一時帰宅の人たちに重宝されています。今までは10km以上離れた所まで買い物に行ってました。
 少しずつ復興が進む中、最近は復興のために働いている除染の作業員の一部の人たちが問題になっています。最近あった大阪の中学生の誘拐事件の犯人が、福島県で除染作業の仕事に従事していたことが分かり、直前まで働いていた川俣町では企業側に除染作業を停止させました。住民からの不安だという声を受けてのことです。実際に除染作業は自宅の敷地内に入って行うものですから信頼関係がなければいけません。川俣町は、作業停止から4日後に、事業者に作業員の管理徹底を求めて再開しました。また南相馬市や南相馬警察署も、市内の復興事業者に対して作業員の管理指導の徹底を求めました。
 実際に原発の廃炉作業は大変で炎天下の中、防護服を着ての作業には、頭の下がる思いがします。それでも被爆はします。除染の作業に関わる人たちも大変で、これにも多くの人を必要とします。しかしこれらの作業には期限がついています。それは被爆量です。線量を超えれば辞めなければなりません。それが除染作業員の給料が高額になる理由で、地元の人手不足に拍車をかけています。
 1F(福島第一原発)の廃炉には、何十年かかるか分かりませんが、その間は日本中からいろんな人が集まって来るでしょう。もしかするとそれでも足りなくなって外国の人たちの手を借りるかもしれません。しかし、それが地元の治安が悪くなる事と比例しては困ります。人材か、はたまた治安か…。問題が次々起きながら復興は続きます。


779号 2015年10月18日

(31)避難解除

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 福島第一原発から20km圏に位置する楢葉町の避難指示が、9月5日に解除されました。1ヵ月ほどたちますが、町民は1割くらいしか戻っていません。国は安全を主張していますが、生活インフラの不足だけでなく、国や東電への不信感もあるからだと思われます。
 南相馬市小高区も来年の4月に避難指示解除を予定していますが、今のところ帰還希望は200世帯くらいといわれています。小高区では区役所の開所、銀行や郵便局や商店等の再開など着々と町村レベルでの復興準備が進められています。
 今年、9月11日からの大雨で茨城県や宮城県に大きな被害を及ぼした「平成27年9月関東・東北豪雨」では、南相馬市でも二級河川が警戒水位を超えました。朝の2時ぐらいに河川付近に住んでる住民約5300人に避難勧告が出され、実際に避難した住民もいました。幸い人的被害はありませんでした。震災の経験があるからだと思います。   
 しかし、そんな中、トラブルが起きました。飯館村は、いま除染の真っ最中ですが、その除染で出た土や草木などが入っている「フレコンバッグ」と呼ばれる黒い袋が11日の大雨で448袋と大量に流されてしまったのです。いまだに10袋以上が回収できていません。
 また、袋は見つかっても中身のないものもあり、濁流によって南相馬に続く川に流されたようです。あらためて汚染廃棄物の管理の在り方が問われています。また、後日袋を探しに行った作業員5人が、一時遭難する事故も起きました。お上への不信感、突然の天災等、色々ありますが、現場の人たちの頑張りで復興は進んでいます。


788号 2015年12月20日

(32 )虚虚実実

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 浜通りも復興が進んできました。平成29年春までに常磐線の仙台〜浪江間が前倒しで開通することになりました。津波にあった新地駅から浜吉田駅間は内陸に線路や駅を移し、4割は高架式になります。また、高速道路の相馬〜福島間も1年前倒しで完成させる計画になりました。
 このようにして陸の孤島は、解消されつつあります。ただ、放射能廃棄物の処理は重たく残っています。福島県と富岡町、楢葉町は福島第1原発事故で発生した県内の指定廃棄物の受け入れを表明しました。多額の復興交付金が支払われるものの、苦渋の決断でしょう。同じ双葉郡の大熊町と双葉町が、去年、除染廃棄物の「中間貯蔵施設」建設を受け入れたこともあり、「負担を分かち合う必要がある」との判断もあると思われます。しかし、地区住民が放射性物質の漏えいや、農業への風評被害などを懸念して、計画に反対する看板を設置するなど、反対の声があるのも事実です。「誰かが受けなければならない」という気持ちと「もう帰れないのだから」と、あきらめ半分ですね。
 最近の調査で山形に避難している人たちへの意識調査で、帰還希望を聞いたところ、帰らないが約28%、帰るが約20%、分からないが約30%でした。また小高区の小中学校の児童生徒の8割は今の仮設校舎への通学を希望しています。4年も経つと、その場所に生活圏ができてしまうから戻らなくなるのです。また健康に関する風評で戻りたくないということもあります。
 国の発表では、健康には問題がないと言ってますが、11月には、また第一原発のALPS(放射性物質除去装置)から漏水がありましたし、最近では除染で使用したマスクや手袋などが、近隣市町村のコンビニのごみ箱に日常的に捨てられるといった問題がありました。国はコントロールしてるといいますが…。震災から4年8ヵ月が過ぎて、地震や津波の被害のあった所は、確実に復旧してます。しかし、原発事故の周辺では、国と東電の虚々実々が見え隠れしています。


796号 2016年2月21日

(33)新聞配達

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 もうすぐ震災から丸5年になろうとしています。震災後の国の計画では、今年は集中復興計画の第一期の締めのはずでした。しかし、現状は難しい状況です。計画の見通しが甘かったのか、予想以上の被害だったのか、被災当事者の私たちにも本当のところが伝わってきません。 
 去年の秋に楢葉町は避難指示解除準備区域が解除されました。それとともに私たちの仕事である新聞配達も再開しました。現在、避難解除された町村の住民帰還率は5%から20%くらいだそうです。そんな中での配達は大変なのです。現在、解除された地区には新聞販売店が2店ありますが、読者数は百数十件ぐらいです。新聞を待っている人がいるから、毎日、街灯もあまりない街中を、住人が少ないが故に次の配達先まで何キロも走って配達しています。割に合わない配達の仕事をする人は少なく、折り込みも入らないため店も余裕はありません。家族だけか、もしくは所長ひとりで配達している状況です。所長いわく「新聞を待ってる人がいるからね」そう言ってスタッフを鼓舞して頑張っています。
 そして、今年の4月に南相馬市の小高区も避難指示解除準備区域が解除されます。そこにも新聞を配達する時が来るのですが、帰還希望者が20%で数百件程度です。配達員の確保は難しく、採算性や将来のことなどを考えると複雑な心境です。
 このように、私たちの仕事にも震災や原発事故は沢山の問題を投げかけています。しかし、新聞の仕事をなりわいとしている以上、読者がそこにいるのなら、なんとかして配達したいと思っています。がんばっぺ 浜通り!


800号 2016年3月20日

(34)最終回 未来のために

南相馬市 挙。原新聞店 代表 藤原広幸

 震災から丸5年が過ぎ、被災3県は復興が進んでいます。そんな中、ある新聞社が3県の市町村首長に「復興格差を感じますか?」という質問をしたところ、66.7%が「そう感じている」と答え、福島県においては86.7%と高い数字でした。やはり浜通りの原発事故が暗い影を落としているのかもしれません。
 新聞のインタビューで南相馬市長は「立入り解除に伴い、東電から住民への賠償金支払い中止が予定される中、地元で復興に向け努力している人達への支援にも配慮が必要。農家は風評被害に困っているが、作付けしない理由はそれだけではなく、作らなければ一反(100u)当たり5万円ほどの保証金が受取れるから。しかし、今の対策だけでは農業の未来はない。それを自覚し、挑戦する人や取組みを支援していきたい」と話しました。
 双葉町の今年の成人式に出ていた青年がテレビインタビューで「現在、埼玉県で看護の勉強をしているが、復興の時にお世話になった方々への恩返しのために福島で働きたい」と答えていました。また、医者になって福島の役に立ちたいと勉学に励む高校生や、「大きくなったらここで床屋さんをしたい」など、厳しい現実の中にも福島の未来のために福島で頑張りたいという若者がたくさん声を上げています。本当にうれしいです。がんばっぺ浜通り!

 今号を持ちまして月刊連載を終了します。今後は不定期に、福島の様子を皆様にお伝えしていきます。よろしくお願い致します。